第40話:安定の40年代・・・ (s42_49)

S47 昭和40年代に入って、30年代のこけしから一皮むけて洗練されたこけしとなった普通型は安定期に入る。木地形態・描彩ともに標準様式が固まり、製作時期により個々の小さな変化は見られるものの、落ち着いた雰囲気の作行が続いていた。一方、この頃は第二次こけしブームが大きなうねりとなってこけし界を覆い、伝統こけしは作る傍から売れてしまうという異常な盛り上がりを見せている時期でもあった。老工や人気工人のこけしは自宅を訪れても全く手に入らないという凄まじさであった。国恵が福寿の店でこけしを選んでいる最中に、業者と思われる人が車でやってきて、棚に並んでいたこけしを全て買っていく場面に遭遇することもあった。

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第39話:時代と共に・・・ (s39_41)

S41 1964年(昭和39年)は東京でアジア初のオリンピック大会が開催された年である。東海道新幹線も開通し、これを境に日本は高度成長期に突入していくことになる。そんな世の中の風潮は東京から日本全体に広がっていき、東北のこけし産地にも及んでいた。新型こけしの世界にも身を置いていた福寿は敏感にそれを感じていた。人々は本格的なものを求めるようになり、デザインの新規さを表現した新型こけしから旧来の様式を引き継いだ旧型こけしが見直されるようにもなった。「伝統こけし」という名称が定着してその地位も固まっていった。そうした流れの中で、旧型こけしの良さを残しながら、いかに時代の要求を取り入れたこけしを作るかに福寿は腐心していた。30年代の福寿こけしは胴が太く、全体的にふっくらとした感じであった。それが40年代に入ると、細身でスタイリッシュな近代的な感じのこけしに変わっていくのである。

 

 

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第38話:30年代「普通型」の総括

S34 本ブログでは昭和30年代の福寿「普通型」こけしの変遷を時期ごとに2~3本のこけしを提示しながら解説してきた。しかし、ある程度長い期間の変化を見るには、やはりそれらのこけしを一堂に並べて見て貰うのが一番である。そこで、今回は昭和20年代の終わりから30年代の終わりまでの作を一列に並べて紹介しよう。

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第37話:30年型の終焉・・・ (s38_39)

S38_20200720131601 ここまで、昭和20年代末から30年代にかけての「普通型」についてその変遷を紹介してきたが、それも今回で終了。福寿の普通型はその後も続いていく訳だが、その様式は大きく変わっていく。その意味から、これまでのこけしを「30年型」として、その終焉とすることにした。この30年型を総覧すると、その変化は結構大きかったと言える。福寿にとっては、この昭和30年代は、新型こけしの時代と言っても良いのかも知れないが、その陰で勘治型や普通型の旧型こけしもしっかりと引き継がれていたことが確認できる。

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第36話:ちょっと変化が・・・ (s37_38)

S3804 昭和30年代も後半に入ると、福寿は新型こけしも手掛けながら、旧型こけしにも力を入れ始める。昭和37年に次男が生まれてからは特にその傾向が強まり、特に勘治型に精力を集中していた。その影響を受けてか、普通型ではやや精彩を欠いたような感じのこけしになっている。この時期の特徴の1つは、肩の上面のロクロ線(これまでは、肩の丸い部分を覆っていた太い赤ロクロ線と肩の山の下部に引かれていた太い赤ロクロ線の間に細い赤ロクロ線が一本引かれていた)から、細い赤ロクロ線が無くなったことである。

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第35話:そして・・・ (s36_37)

S37_ 昭和30年代の福寿こけしは文献などでも紹介がなく、こけし自体にそれと分るような記載が無いと、その製作年月を判定することはなかなか難しい。今回紹介する2本のこけしも時期的にはそれほど隔たっていないと思われるものであるが、製作年月は推定である。

 

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第34話:「普通型」完成! (s35_36)

S36_20200714131501 昭和35年に、福寿は新型こけしの2大コンクールで、いずれも最高賞(内閣総理大臣賞、農林大臣賞)をとり、この分野での頂点にたった。その後も新型こけし、旧型のこけしの双方を作っていたが、旧型こけしに向き合う時間は増えて行った。世の中の経済が成長期に入りつつある中で、こけしを含めた民芸品・郷土玩具に対する一般の関心も高まりつつあり、都市のデパートなどで開催される物産・観光展にこけしが出品され、実演のために工人が出掛けて行くこともあった。「高勘」から独立した若き福寿にも実演の話が舞い込み、上京することになった。そんな中で「普通型」と言われる福寿のこけしは完成期を迎えつつあった。

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第33話:躍動感溢れる・・・ (s33_34)

S34_ 昭和33年2月には長男寿彦が生まれ、福寿のこけし製作に対する意欲は一段と高まっていった。この時期(昭和33~34年)、製作の中心は新型こけしになってはいたが、老舗「高勘」の一員である福寿は、旧型こけしも作っていた。その気持ちの高ぶりは作品に現れ、普通型にも描彩面で他の時期には見られない特徴が現れている。

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第32話:所帯を持って・・・ (s32)

S32 昭和32年4月、福寿は遊佐節子と結婚して遊佐家の養子となり「高勘」から独立して、駅前の下駄商店の一角に「遊佐こけし店」を開いた。これまでは実家の「高勘」のために働いてきた訳だが、これからは自分と家族のために仕事に励むことになった。こけし作りに関してもより自由に作れることになった。そんな中から、普通型こけしについても変化が出てきた。それが端的に現れているのが、肩と肩の山のロクロ線の様式である。特に肩の山のロクロ線の様式はそれまでの勘治様式を止めて標準的な様式に変わった。この様式は、以降「普通型」の様式として続いていくことになる。

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第31話:独身時代・・・ (s30)

S30_20200706155701 福寿が本家「高勘」で生活していた独身時代、その作るこけしは「高勘」の標準的なこけしであって、それは福寿が父盛や兄盛雄用に作ったものと同じ木地に描彩を施したものであった。木地下には木地を挽いて大寸なら胴のロクロ線も引いていた。このロクロ線は、胴の上下と肩、肩の山に引いたものであって、このロクロ線の引き方は西田勘治の写しを作ってから大きく変化していた。特に、肩の山のロクロ線は太い赤ロクロ線2本で1本の細い赤ロクロ線を挟んだもので、これを勘治様式と呼ぼう。このロクロ線の様式は福寿の「高勘」時代の大きな特徴であって、結婚する(昭和32年)まではこの様式が続く。

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