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2020年5月

第10話:盛の勘治型は…

Photo_20200530160301 土橋慶三氏が持ち込んだ勘治のこけし(西田勘治)は、盛にとっては秋田での初見から10年振りの再会であった。秋田で見た時にはただひたすら懐かしく、西田峯吉氏もそれが勘治のこけしだと判明したことで満足して帰って行った。しかし今回の土橋氏は勘治こけしの魅力を訥々と語り、このようなこけしを作ることが今の鳴子こけしにとっては必要なのだと、その復元を勧めた。盛は懐かしさの想いから福寿の挽いた2本の木地に描彩を行い、胴底に「明治時代 想出乃作」と書き加えた。未だ、「写し」とか「復元」などという言葉や行為が一般的ではない時代であった。この製作を機に盛は新しく「勘治型」という名のこけしを作ることになった。今でこそ「原」こけしに忠実に作ることが「写し」「復元」の原則のように考えられているが、この時の盛にはそんな気持ちはなく、あくまで勘治のこけしの特徴を備えたこけしを作るくらいに考えていた。「原」に忠実ではなく、それに自分なりの工夫を加えて盛自身の勘治のこけしを作るという意識の方が強かったのであろう。その後暫くは「原」に近い勘治型こけしを作っていたが、一年もすると髷と角髪と二側目は勘治こけしを踏襲しながら、他の部分(木地形態・描彩)では盛自身の特徴を持ったこけしに代わっていった。

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第9話:勘治型誕生!

Photo_20200529182601 昭和20年代も半ばを過ぎて戦後の混乱も一段落してくると各地の温泉地にも訪れる客が増えてきた。東北有数の温泉地である鳴子でも湯治客が土産物店などを覗きながら散策する姿が多く見られたが、そこに並んでいるこけしは伝統性に乏しい画一的な可愛い子ちゃんこけしになっていた。そんな鳴子こけしの現状に危機感を抱いている一団があった。「かすみ族」と呼ばれたそのグループの面々は「かすみを食って生きているんじゃないか」と言われるほど飲食を忘れてこけしに熱中していた。その族長であった土橋慶三氏が意を決して鳴子を訪れたのは昭和27年の3月になってからであった。その手には西田峯吉氏より借用した勘治のこけしを携えていた。「高勘」を訪れた土橋氏は、盛、盛雄、福寿の3人を前に持参した勘治のこけしを取り出して見せ、鳴子古来のこけしの本来の姿を熱弁を振るって諭した。福寿にとっては、これまで朧気であった勘治のこけしを目前にして大いに感銘を受けた。その想いから、福寿は夜を徹して3本の木地を挽き、その内2本には盛が描彩を行い、1本には福寿が描彩して写しを作った。これが福寿が本格的に勘治型のこけしを作った最初である。以後、盛、盛雄、福寿を中心とする「高勘」の工人は勘治型のこけしを作っていくことになる。

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第8話:勘治こけしへの想い

S26__20200528171201 鳴子に戻ってからの福寿は自身のこけしを作るべく色々と考えを巡らしていたが、その根底には秋田で見た勘治のこけしの朧げなるイメージが見え隠れしていた。それらは、頭頂部の髷や跳ね鬢として福寿のこけしに取り入れられていたが、今一つ満足出来るものではなかった。そうした試行錯誤の中で、福寿の頭の中では自身の勘治こけしに対するイメージが出来上がりつつあった。「福寿勘治型」である。頭頂部には髷を描き、鬢は角髪(みずら)形、丸い肩の部分は太い赤ロクロ線で締め、胴には大輪の正面菊を2輪、その脇には蕾も入れる。そこには、若き福寿の勘治こけしへの熱き想いが満ち溢れていた。

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第7話:動力ロクロ導入

S26_2_20200528135301昭和26年、「高勘」に動力(電気)ロクロが導入された。

それまで、足踏みロクロで木地挽きをしていた福寿にとって、それは待ち待ったものであり、格段に作業効率を上げるものでもあった。前年のコンクールでは入賞もして、ますますこけし作りにも意欲が湧いていた。一方で胴上下の赤ロクロ線を2段にして、鬢を大きく跳ね上げた描彩は、正面から見ると鬢が目立ち過ぎてちょっとやり過ぎかという感じもしていた。動力ロクロのお陰で木地挽きにもゆとりが出来てきたので、今一度、勘治・盛こけしの原点を見つめ直してみた。

 

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第6話:その頃、盛・盛雄は…

S26__20200528135301 大正6年生まれの盛雄は、高等小学校を卒業後、父盛について木地修業を行い、昭和12年からは横須賀の海軍航空廠に入って鳴子を離れた。そのため、一家と一緒に秋田には行かず、終戦時には仙台で勤めをしていた。鳴子に帰ったのは昭和25年になってからである。昭和12年以降は木地業についていなかったこともあり、帰郷後は福寿や森谷和男(昭和24年11月より盛の弟子)の挽いた木地に主として描彩を行っていた。作るこけしは「高勘」の跡取りとして盛の作風をそのまま継いだものである。

 

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第5話:福寿こけしデビュー!

S25_ 昭和25年、仙台に行っていた兄盛雄が帰ってきて、こけし作りに参加した。

盛の許可も出て、これまで盛や盛雄の木地下を挽いていた福寿も、自身のこけしをどう作ろうかと考えていた。昔通りのこけしを作っても売れそうに無い。とは言え、皆と同じのクリクリ目のこけしを作るのは自尊心が許さない。そんな時、秋田で見た祖父勘治のこけしが蘇ってきた。そして、同年(s25年)開催された全日本こけし品評会に初めて出品し、エジコが市長賞を受賞し、首振りこけしが入選を果たした。

 

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第4話:鳴子に戻ってみると…

S23_ 昭和23年春、盛一家はようやく鳴子新屋敷の自宅に戻ってきた。

 

 

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第3話:秋田へ…

__20200528135701 鳴子有数の老舗木地屋に生れた福寿であったが、当時の鳴子での木地業は必ずしも順調ではなかった。福寿8歳の昭和14年1月、父盛は秋田市長土手町の秋田県立工芸指導所に木地講師として招かれ、一家は横須賀の海軍航空廠に出ていた盛雄を除いて秋田市に移住することになった。それに伴い、福寿も秋田市旭南小学校に転校となった。山間部の鳴子から海に近い秋田の小学校に移り、福寿は新しい環境に馴染んでいった。

 

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第2話:福寿誕生!

昭和5年3月17日、鳴子の高橋盛・きくゑ夫妻に男子が生まれた。長男盛雄が生まれたのは大正6年のこと、その後女子が4人生まれ、久しぶりの男の子誕生に老舗「高勘」は喜びに包まれた。その男子は「福寿」と名付けれた。このおめでたい名前に両親の気持ちが良く表れている。

 

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第1話:プロローグ

_ 鳴子こけしの祖は大沼又五郎と言われている。又五郎は弘化年間に小田原より湯治にきて源蔵湯に泊まっていた木地師から鳴子でははじめて小物挽きの技術を習った。高野幸八の姉さと(安政3年11月23日生)の談によると「温泉神社の受け持ち神主をしていた早坂某が伊勢参りをして、どこかで木の人形を買って帰った。これを見本にして、小さい人形を作らせ温泉神社で一銭の賽銭を貰ってお守りとして出した。大沼又五郎がそれを4寸くらいの大きさの人形に作って店で売ったのが鳴子こけしの始まりだ」という。又五郎の弟子である大沼岩太郎、大沼利右衛門、高野幸八、高橋金太郎などが始まりとなって鳴子の5系列が生れ、今日まで引き継がれている。

 

 

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開設にあたり…

今年(令和2年)の3月26日は、アメリカではMLBが開幕し、日本では東京五輪の聖火が福島から国内リレーを開始する記念すべき日になるはずであった。そしてその日は筆者(国恵)の70歳台突入の日でもあった。それから二ヶ月が経過しているが、中国武漢で発生した新型コロナウィルス感染の影響によって世界は全く変わってしまった。日本でも約一か月の緊急事態宣言による総自粛体制はようやく解禁となったが、もはや前と同じ生活を送ることは出来ない世の中となっている。

さて、国恵のこけし収集の原点は鳴子の工人遊佐福寿さんとその作品であり、今も収集の中心であることに変わりはない。平成13年にそれまでの収集の成果を一冊の自家製本に纏めたのであるが、その年の1月25日に福寿さんは急逝してしまい完成本を見て頂くことは出来なかった。その後、第3次こけしブームを迎え新しい収集家も増えているが、もう福寿さんを知らない人も多くなっている。そこで、福寿さんの歩んできたこけし人生を、国恵が収集したこけしと木地製品を通して物語風に紹介する一大叙事詩『福寿物語』を纏め上げる作業に着手することにした。

その過程を本ブログで公開し、最終的には「本」の形で残していきたいと考えている。とは言え、私が福寿さんを知ったのは昭和47年のこと。従って、それ以前の事については、福寿さんから聞いたことや各種文献での記載事項を元にして国恵が想像で描いた「フィクション」であることをご承知願いたい。また、文中の工人名は敬称略で記述する。

※)福寿さんに関する資料や特に写真があれば提供をお願いします!

 

 

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