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第3話:秋田へ…

__20200528135701 鳴子有数の老舗木地屋に生れた福寿であったが、当時の鳴子での木地業は必ずしも順調ではなかった。福寿8歳の昭和14年1月、父盛は秋田市長土手町の秋田県立工芸指導所に木地講師として招かれ、一家は横須賀の海軍航空廠に出ていた盛雄を除いて秋田市に移住することになった。それに伴い、福寿も秋田市旭南小学校に転校となった。山間部の鳴子から海に近い秋田の小学校に移り、福寿は新しい環境に馴染んでいった。

 

昭和17年、福寿は秋田市旭南小学校を卒業し、秋田高等小学校に入学した。

その年の5月、一人の紳士が盛を訪ねて秋田までやってきた。東京から来たその人は大きなこけしを1本携えていた。西田峯吉氏である。そのこけしは昭和14年に東京銀座の「吾八」で入手した尺1寸余りの大きなものであった。西田氏はそのこけしを盛に見せて、「このこけしは、あなたの親父の勘治のこけしではないかと思うのだがどうだろうか?」と問うた。そのこけしを手にしてじっくりと見ていた盛はしばらくして「これは確かに親父のこけしだと思う。多分、明治37か38年頃のものだろう」と答えた。盛に呼ばれて福寿も一緒にこの勘治のこけしを見せて貰い、祖父のこけしのイメージを頭に刻み込んだ。ここに勘治のこけしが初めて判明し、西田氏は郷玩誌「鯛車」で発表した。

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< 鯛車 >

これが勘治のこけしが世に明らかになった初めである。

昭和19年3月、福寿は秋田高等小学校を卒業。同20年春、戦況悪化による強制疎開により一家は鳴子は帰るはずであったが、工芸指導所での縁で本荘の由利木工所に移り木地業を続けることになった。本荘では、工芸指導所で弟子となった佐々木末治、皆川元一、皆川たみ子(描彩のみ)、佐々木久作、子野日幸助が一緒に働いた。

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<佐々木久作・子野日幸助・皆川たみ子>

その昭和20年7月より福寿は父盛について木地修業を開始する。

最初は足踏みロクロによる横木挽きから始め、茶托や茶盆、こけしなどを挽きながら懸命に木地技術の修得に努めた。そうして3年が経ち、一家は故郷鳴子に戻ることになった。

 

 

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