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第9話:勘治型誕生!

Photo_20200529182601 昭和20年代も半ばを過ぎて戦後の混乱も一段落してくると各地の温泉地にも訪れる客が増えてきた。東北有数の温泉地である鳴子でも湯治客が土産物店などを覗きながら散策する姿が多く見られたが、そこに並んでいるこけしは伝統性に乏しい画一的な可愛い子ちゃんこけしになっていた。そんな鳴子こけしの現状に危機感を抱いている一団があった。「かすみ族」と呼ばれたそのグループの面々は「かすみを食って生きているんじゃないか」と言われるほど飲食を忘れてこけしに熱中していた。その族長であった土橋慶三氏が意を決して鳴子を訪れたのは昭和27年の3月になってからであった。その手には西田峯吉氏より借用した勘治のこけしを携えていた。「高勘」を訪れた土橋氏は、盛、盛雄、福寿の3人を前に持参した勘治のこけしを取り出して見せ、鳴子古来のこけしの本来の姿を熱弁を振るって諭した。福寿にとっては、これまで朧気であった勘治のこけしを目前にして大いに感銘を受けた。その想いから、福寿は夜を徹して3本の木地を挽き、その内2本には盛が描彩を行い、1本には福寿が描彩して写しを作った。これが福寿が本格的に勘治型のこけしを作った最初である。以後、盛、盛雄、福寿を中心とする「高勘」の工人は勘治型のこけしを作っていくことになる。

この時に作られた盛と福寿の勘治こけしの写しは土橋氏と同行した名和夫妻に贈られた。そのこけしが神田の書肆「ひやね」の入札会に現れたのは平成10年のことで、盛と福寿の作が1本ずつ出品され、国恵も入札に参加したが落札は出来ず、それぞれ愛好家の所に移って行った。それから暫く経った平成11年4月にまた盛の勘治写しが出品された。これは前回の写しより遥かに保存の良い佳品であったがどういう訳か入札者が無く、その後国恵が譲って頂いた。後日、西田記念館を訪れる機会があり、その時にはたまたま福寿の勘治写しも西田記念館にあったので、勘治、盛、福寿の3本のこけしを並べて見るという幸運な機会を得た。

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< 福寿、勘治、盛 >

こちらがその時の写真である。左から福寿の勘治写し、勘治(西田蔵)、盛の勘治写しである。この3本が顔を合わせたのは久しぶりだったのではないか。こうして比べてみると、木地形態から描彩まで、福寿が勘治こけしを実に忠実に写しているかが分る。適度な古色も付いており、福寿の写しを勘治のこけしだと言ってもそのまま信じてしまいそうである。何本も作った訳でもなく、また作り直した訳でもないようだから、ぶっつけ本番でこれ1本を作ったのであろう。この年福寿はまだ22歳、その卓越した才能が偲ばれる作品である。盛の作も「原」を良く写しているが、胴最上部の添え葉が描かれていない等、福寿ほどには忠実に描いていない。なお、盛のもう1本の勘治写しは、美術出版社の「こけし」(昭和31年7月25日発行)の口絵カラー写真に載っているが、やはり胴最上部の添え葉は描かれていない。

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