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秋田時代から木地修業を始め「高勘」で磨いた木地技術に加え、新型こけしで身に着けた造形感覚から生み出された福寿の勘治型こけしは、明治期の勘治のこけしを現代感覚で再現したこけしとして高く評価され、昭和39年5月に開催された全日本こけしコンクールにて最高賞の通産大臣賞を受賞した。30年代の半ば頃までは新型こけしに傾倒した異端の工人と見られていたが、新型こけしと決別しこの勘治型も持って旧型こけしの世界に戻ってきた福寿は鳴子でも一躍人気工人となり、ますます製作に力が入ることになった。そして、それまで妻の実家の遊佐下駄商店の一角にこけしを並べていたが、昭和40年7月には、駅前通りの現在地に「工人 福寿の店」を開店した。
昭和30年代も後半に入ると、こけし界の様相も変わってきた。一世を風靡していた新型こけしにも陰りが見え始め、一方で「伝統こけし」という名称が定着しだした旧型こけしが見直されてきたのである。こけし界の先達たちが進めてきた復元(写し)による古作こけしの復古運動がブームになってきたのである。そして新型こけしの製作に精力を注ぎ、その分野での頂点を極めた福寿は、勘治型への再挑戦に向けての意欲が沸々と湧き上がっていた。そんな折、昭和38年2月、東京日本橋三越で「第1回木形子展」が開かれることになった。福寿はこのコンクールに向けて新たな勘治型の製作を始めた。先ずは「原」の勘治こけしをじっくり観察することから始まった。幸い、鳴子町役場には深澤要氏が寄贈した勘治こけしが保管されていた。昭和27年に福寿が写しを作ったのは西田峯吉氏が所蔵していた勘治のこけし(西田勘治)だったので、それ以降に福寿が作った勘治型こけしは西田勘治を元にしたもの(西田勘治型)であった。ところが、今回参考にしたのは深澤氏の勘治こけし(深澤勘治)であり、これ以降に作られたのは基本的には深澤勘治型ということになる。そして、この第1回木形子展で、福寿の出品した勘治型は見事に第1位優秀賞を受賞した。
昭和40年代以降、民芸品等の一大ブームの中で、こけしも第二次こけしブームを迎え、民芸品全般のブームが下火になっても、こけしだけは大丈夫と言われて投資の目的でもこけしが流通していた。しかし、昭和から平成に時代が変わる中で、こけしにおいてもマンネリ感が漂っていた。そんな中で、高橋五郎氏が提唱した「新しい伝統こけし」は停滞気味のこけし界に一石を投じることとなり、福寿の関心もそちらに向いて行った。従来型のこけしも作っていたが、その数量は次第に少なくなっていった。「新しい伝統こけし展」が3回で終了した後は、ソニーファミリークラブによる頒布会が始まり、福寿はその製作に追われることになった。そして、ソニー頒布が始まってからは、普通型のこけしも見かけなくなってしまった。
福寿のこけしは昭和30年代までは勘治型と普通型、それに新型の3種が作られていた。昭和42年からは大正型も作り始め、古鳴子型もほぼ同じ頃から作り始めて、昭和40年代には勘治型、普通型、大正型、古鳴子型の4種を作り分けていた。50年代になるとこれに変化が現れ始める。40年代末から高勘古作の復元の話が持ち込まれ、52年には盛の昭和初期、角肩で平頭のこけし(盛古型)も作り始めた。その影響を受けて普通型の標準様式にも変化が出てくる。普通型と盛古型の特徴が入り混じったこけしが作られることになるのである。国恵はその違いを肩が丸いか角張っているかで区別しているが、これによって普通型のバラエティが大いに広がった。
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