他工人作

第11話:原点への回帰

S27_20200602151701 土橋慶三氏の熱意によって、盛・福寿の両名が勘治のこけしの写しを作ったことにより、土橋氏の今回の鳴子訪問の一つの目的は達成されたが、最も大事なことは現状の鳴子こけし全体を昔のような個性に溢れ生気に満ちたこけしに戻すことであった。そのため、土橋氏は「高勘」以外にも、高橋武蔵、大沼誓、大沼新兵衛、桜井万之丞、岡崎斉、伊藤松三郎、大沼健三郎、松田初見などの長老を始め、多くの若手工人とも会って、その想いを語った。盛も土橋氏の話を聞き、勘治こけしの写しを作ったことにより目が覚めたのであろう。本来自分が作ってきたこけしを振り返り、本荘から鳴子に戻ってきた当時のこけしを思い出して作った。その想いは福寿も同じで、自分の型として作っていた跳ね鬢のこけしを一先ず横に置いて、「高勘」本来の盛こけしを継承したこけしを作り始めた。

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第10話:盛の勘治型は…

Photo_20200530160301 土橋慶三氏が持ち込んだ勘治のこけし(西田勘治)は、盛にとっては秋田での初見から10年振りの再会であった。秋田で見た時にはただひたすら懐かしく、西田峯吉氏もそれが勘治のこけしだと判明したことで満足して帰って行った。しかし今回の土橋氏は勘治こけしの魅力を訥々と語り、このようなこけしを作ることが今の鳴子こけしにとっては必要なのだと、その復元を勧めた。盛は懐かしさの想いから福寿の挽いた2本の木地に描彩を行い、胴底に「明治時代 想出乃作」と書き加えた。未だ、「写し」とか「復元」などという言葉や行為が一般的ではない時代であった。この製作を機に盛は新しく「勘治型」という名のこけしを作ることになった。今でこそ「原」こけしに忠実に作ることが「写し」「復元」の原則のように考えられているが、この時の盛にはそんな気持ちはなく、あくまで勘治のこけしの特徴を備えたこけしを作るくらいに考えていた。「原」に忠実ではなく、それに自分なりの工夫を加えて盛自身の勘治のこけしを作るという意識の方が強かったのであろう。その後暫くは「原」に近い勘治型こけしを作っていたが、一年もすると髷と角髪と二側目は勘治こけしを踏襲しながら、他の部分(木地形態・描彩)では盛自身の特徴を持ったこけしに代わっていった。

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第9話:勘治型誕生!

Photo_20200529182601 昭和20年代も半ばを過ぎて戦後の混乱も一段落してくると各地の温泉地にも訪れる客が増えてきた。東北有数の温泉地である鳴子でも湯治客が土産物店などを覗きながら散策する姿が多く見られたが、そこに並んでいるこけしは伝統性に乏しい画一的な可愛い子ちゃんこけしになっていた。そんな鳴子こけしの現状に危機感を抱いている一団があった。「かすみ族」と呼ばれたそのグループの面々は「かすみを食って生きているんじゃないか」と言われるほど飲食を忘れてこけしに熱中していた。その族長であった土橋慶三氏が意を決して鳴子を訪れたのは昭和27年の3月になってからであった。その手には西田峯吉氏より借用した勘治のこけしを携えていた。「高勘」を訪れた土橋氏は、盛、盛雄、福寿の3人を前に持参した勘治のこけしを取り出して見せ、鳴子古来のこけしの本来の姿を熱弁を振るって諭した。福寿にとっては、これまで朧気であった勘治のこけしを目前にして大いに感銘を受けた。その想いから、福寿は夜を徹して3本の木地を挽き、その内2本には盛が描彩を行い、1本には福寿が描彩して写しを作った。これが福寿が本格的に勘治型のこけしを作った最初である。以後、盛、盛雄、福寿を中心とする「高勘」の工人は勘治型のこけしを作っていくことになる。

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第6話:その頃、盛・盛雄は…

S26__20200528135301 大正6年生まれの盛雄は、高等小学校を卒業後、父盛について木地修業を行い、昭和12年からは横須賀の海軍航空廠に入って鳴子を離れた。そのため、一家と一緒に秋田には行かず、終戦時には仙台で勤めをしていた。鳴子に帰ったのは昭和25年になってからである。昭和12年以降は木地業についていなかったこともあり、帰郷後は福寿や森谷和男(昭和24年11月より盛の弟子)の挽いた木地に主として描彩を行っていた。作るこけしは「高勘」の跡取りとして盛の作風をそのまま継いだものである。

 

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第4話:鳴子に戻ってみると…

S23_ 昭和23年春、盛一家はようやく鳴子新屋敷の自宅に戻ってきた。

 

 

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第3話:秋田へ…

__20200528135701 鳴子有数の老舗木地屋に生れた福寿であったが、当時の鳴子での木地業は必ずしも順調ではなかった。福寿8歳の昭和14年1月、父盛は秋田市長土手町の秋田県立工芸指導所に木地講師として招かれ、一家は横須賀の海軍航空廠に出ていた盛雄を除いて秋田市に移住することになった。それに伴い、福寿も秋田市旭南小学校に転校となった。山間部の鳴子から海に近い秋田の小学校に移り、福寿は新しい環境に馴染んでいった。

 

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第1話:プロローグ

_ 鳴子こけしの祖は大沼又五郎と言われている。又五郎は弘化年間に小田原より湯治にきて源蔵湯に泊まっていた木地師から鳴子でははじめて小物挽きの技術を習った。高野幸八の姉さと(安政3年11月23日生)の談によると「温泉神社の受け持ち神主をしていた早坂某が伊勢参りをして、どこかで木の人形を買って帰った。これを見本にして、小さい人形を作らせ温泉神社で一銭の賽銭を貰ってお守りとして出した。大沼又五郎がそれを4寸くらいの大きさの人形に作って店で売ったのが鳴子こけしの始まりだ」という。又五郎の弟子である大沼岩太郎、大沼利右衛門、高野幸八、高橋金太郎などが始まりとなって鳴子の5系列が生れ、今日まで引き継がれている。

 

 

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