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第55話:第3回新しい伝統こけし展(平成6年6月)その2

Fukujyu_ndento_3rd_okame_kao 今回は、第3回新しい伝統こけし展に出品された福寿さんの作品の内、木地技術の極みに挑戦したものを見てみよう。この手の挑戦は第2回の展覧会で、鼻と口を立体的に削り出すことで実行していた。今回の展覧会では、その手法を更に進めて「おかめ・ひょっとこ」を作り出している。おかめについては顔全体を、ひょっとこについてはひょっとこの面を被った形態となっている。「おかめ・ひょっとこ」は日本では古来から神楽の道化役として用いられており、おかめは「厄払い」や「魔除け」から「福を招く神様」、ひょっとこは「火を守る神様」、「竈神」として崇められ、二人合わせて「家庭円満の神様」として扱われることも多いようである。こけしの頭におかめを描く様式は遠刈田でも見られ、七福神などと同じようにこけしと言うよりもこけし周辺の木地玩具の一種として扱った方が適切なのであろう。口絵写真は、そのおかめの表情である。

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第54話:第3回新しい伝統こけし展(平成6年6月)その1

Fukujyu_ndento_3rd_kao 平成2年から隔年で開催されてきた「新しい伝統こけし展」は停滞しつつあった伝統こけし界に新風を吹き込むものとして評価され、出品する工人数も増加してきた。そして最後となる第3回目は平成6年の6月に開催された。参加・出品工人は127名(314点)に達し、意欲的な作品も多く見られるようになった。福寿さんはこの第3回展覧会に実に18本もの作品を出品している。二桁出品は他におらず圧倒的な数であった。新しい伝統こけしとして挑戦してきた福寿こけしの集大成と言っても良いであろう。その内容は伝統的色彩の濃いものから、表情・胴模様に新しい工夫を取り入れたもの、木地技術の粋を凝らしたもの、その融合作までと幅広く、中には伝統こけしという範疇からは超越したものまでが見受けられる。今回はその中から面描の異なる3点を紹介しよう。口絵写真は、その3点の内の1点の表情である。

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第53話:第2回新しい伝統こけし展(平成4年6月)

Fukujyu_ndento_2nd_kao 平成2年に開催された第1回新しい伝統こけし展は72名の参加者を得て好評裡に終了した。それから2年が経過した平成4年6月、第2回新しい伝統こけし展が開催され、前回より20名以上多い94名の工人が参加をした。この第2回に福寿さんも参加したが、出品したこけしは1本のみ。第1回には12本も出していたので驚きであった。その1本は面描の鼻と口を立体化したもので、これまでの伝統こけしの常識を超越したものであった。昭和30年代、福寿さんが新型こけしに傾倒していた時期、コンクールで内閣総理大臣賞を受賞した「宝珠」や農林大臣賞を受賞した「ぼく」の鼻は後から接着剤で付けたものであった。今回の新伝統では、その部分を本体から削り込んで作ったものであった。まさに、木地技術の究極に挑戦したものだったのである。これは前回の斜め笠や髷よりも更に手間のかかるものであり、この1本に全精力を集中して作り上げたものであった。口絵写真は、その出品作と同手の作の顔の部分である。

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第9話:勘治型誕生!

Photo_20200529182601 昭和20年代も半ばを過ぎて戦後の混乱も一段落してくると各地の温泉地にも訪れる客が増えてきた。東北有数の温泉地である鳴子でも湯治客が土産物店などを覗きながら散策する姿が多く見られたが、そこに並んでいるこけしは伝統性に乏しい画一的な可愛い子ちゃんこけしになっていた。そんな鳴子こけしの現状に危機感を抱いている一団があった。「かすみ族」と呼ばれたそのグループの面々は「かすみを食って生きているんじゃないか」と言われるほど飲食を忘れてこけしに熱中していた。その族長であった土橋慶三氏が意を決して鳴子を訪れたのは昭和27年の3月になってからであった。その手には西田峯吉氏より借用した勘治のこけしを携えていた。「高勘」を訪れた土橋氏は、盛、盛雄、福寿の3人を前に持参した勘治のこけしを取り出して見せ、鳴子古来のこけしの本来の姿を熱弁を振るって諭した。福寿にとっては、これまで朧気であった勘治のこけしを目前にして大いに感銘を受けた。その想いから、福寿は夜を徹して3本の木地を挽き、その内2本には盛が描彩を行い、1本には福寿が描彩して写しを作った。これが福寿が本格的に勘治型のこけしを作った最初である。以後、盛、盛雄、福寿を中心とする「高勘」の工人は勘治型のこけしを作っていくことになる。

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第6話:その頃、盛・盛雄は…

S26__20200528135301 大正6年生まれの盛雄は、高等小学校を卒業後、父盛について木地修業を行い、昭和12年からは横須賀の海軍航空廠に入って鳴子を離れた。そのため、一家と一緒に秋田には行かず、終戦時には仙台で勤めをしていた。鳴子に帰ったのは昭和25年になってからである。昭和12年以降は木地業についていなかったこともあり、帰郷後は福寿や森谷和男(昭和24年11月より盛の弟子)の挽いた木地に主として描彩を行っていた。作るこけしは「高勘」の跡取りとして盛の作風をそのまま継いだものである。

 

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第4話:鳴子に戻ってみると…

S23_ 昭和23年春、盛一家はようやく鳴子新屋敷の自宅に戻ってきた。

 

 

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第3話:秋田へ…

__20200528135701 鳴子有数の老舗木地屋に生れた福寿であったが、当時の鳴子での木地業は必ずしも順調ではなかった。福寿8歳の昭和14年1月、父盛は秋田市長土手町の秋田県立工芸指導所に木地講師として招かれ、一家は横須賀の海軍航空廠に出ていた盛雄を除いて秋田市に移住することになった。それに伴い、福寿も秋田市旭南小学校に転校となった。山間部の鳴子から海に近い秋田の小学校に移り、福寿は新しい環境に馴染んでいった。

 

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第2話:福寿誕生!

昭和5年3月17日、鳴子の高橋盛・きくゑ夫妻に男子が生まれた。長男盛雄が生まれたのは大正6年のこと、その後女子が4人生まれ、久しぶりの男の子誕生に老舗「高勘」は喜びに包まれた。その男子は「福寿」と名付けれた。このおめでたい名前に両親の気持ちが良く表れている。

 

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第1話:プロローグ

_ 鳴子こけしの祖は大沼又五郎と言われている。又五郎は弘化年間に小田原より湯治にきて源蔵湯に泊まっていた木地師から鳴子でははじめて小物挽きの技術を習った。高野幸八の姉さと(安政3年11月23日生)の談によると「温泉神社の受け持ち神主をしていた早坂某が伊勢参りをして、どこかで木の人形を買って帰った。これを見本にして、小さい人形を作らせ温泉神社で一銭の賽銭を貰ってお守りとして出した。大沼又五郎がそれを4寸くらいの大きさの人形に作って店で売ったのが鳴子こけしの始まりだ」という。又五郎の弟子である大沼岩太郎、大沼利右衛門、高野幸八、高橋金太郎などが始まりとなって鳴子の5系列が生れ、今日まで引き継がれている。

 

 

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開設にあたり…

今年(令和2年)の3月26日は、アメリカではMLBが開幕し、日本では東京五輪の聖火が福島から国内リレーを開始する記念すべき日になるはずであった。そしてその日は筆者(国恵)の70歳台突入の日でもあった。それから二ヶ月が経過しているが、中国武漢で発生した新型コロナウィルス感染の影響によって世界は全く変わってしまった。日本でも約一か月の緊急事態宣言による総自粛体制はようやく解禁となったが、もはや前と同じ生活を送ることは出来ない世の中となっている。

さて、国恵のこけし収集の原点は鳴子の工人遊佐福寿さんとその作品であり、今も収集の中心であることに変わりはない。平成13年にそれまでの収集の成果を一冊の自家製本に纏めたのであるが、その年の1月25日に福寿さんは急逝してしまい完成本を見て頂くことは出来なかった。その後、第3次こけしブームを迎え新しい収集家も増えているが、もう福寿さんを知らない人も多くなっている。そこで、福寿さんの歩んできたこけし人生を、国恵が収集したこけしと木地製品を通して物語風に紹介する一大叙事詩『福寿物語』を纏め上げる作業に着手することにした。

その過程を本ブログで公開し、最終的には「本」の形で残していきたいと考えている。とは言え、私が福寿さんを知ったのは昭和47年のこと。従って、それ以前の事については、福寿さんから聞いたことや各種文献での記載事項を元にして国恵が想像で描いた「フィクション」であることをご承知願いたい。また、文中の工人名は敬称略で記述する。

※)福寿さんに関する資料や特に写真があれば提供をお願いします!