« 第113夜:津軽の競作2(恵介) | トップページ | 第115夜:昨夜の入札 »

第114夜:鉄則こけしの変化

Tetunori_botan_s45kao 以前に「30年代のこけし」というタイトルで、同一工人の30年代と40年代以降のこけしを比較し、その変化を述べたことがある。今、見てみると30年代以前からこけしを作っていた工人の多くが40年代以降になると、その作るこけしが近代化してきたのが分かる。ここで言う近代化とは、素朴さや泥臭さが無くなってスマートに洗練されてきたということである。これは当時の世の中の風潮を受けたものであって、それは最北の津軽の地においても避けられないものであったのであろう。今夜はその話である。

Tetunori_botan_s45 奥瀬鉄則さんの場合、本格的に盛秀型の各種のこけしを作り始めたのは40年代に入ってから。その当初のこけしは津軽の風土性を十分に反映したものであった。しかしそれは40年代の中頃までであって、その後は急速に洗練されていく。そして、その後のこけしブームの中で脚光を浴びる華麗な盛秀型こけしに変貌を遂げていくのである。ここでは私の好きな開き目の牡丹こけしを例に見てみよう。写真のこけしは昭和44、5年頃のこけしである。大きさは9寸5分、頭は頭頂部がとんがり気味の卵形で胴もややずんぐりとしている。面描はおかっぱの前髪が長く、目は顔の中央あたりになっている。眼点が瞼の中央寄りに描かれているために凝視度が強く、それでいてグルーミーさも備えた表情となっている。胴の牡丹模様も花弁の輪郭を赤線で描き、中を薄赤で塗っている。これは手本にした盛秀こけしに倣ったものなのであろう。

Tetunori_botan_s45hikaku 写真3の左は昭和61年作の尺。右の作と比べて、頭は丸く、木地形態が細身で洗練されているのが分かる。描彩も目の湾曲が大きくなり明るく健康的な表情になっている。その分、津軽らしさは薄らいでしまった感がある。牡丹模様も花弁全体を赤で塗りつぶしている。鉄則こけしの署名を見てみると、昭和40年代の初めから45年頃までのものは「ぬるゆ」とひらがなで地名を書いている。その後、一時的に「津軽」と漢字で地名を入れたものがあるが、47年頃からは名前だけとなる。津軽の風土性を感じさせる鉄則こけしは、「ぬるゆ」と書かれたものまでと言えるのではないだろうか。

|

« 第113夜:津軽の競作2(恵介) | トップページ | 第115夜:昨夜の入札 »

津軽系」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/188678/17114943

この記事へのトラックバック一覧です: 第114夜:鉄則こけしの変化:

« 第113夜:津軽の競作2(恵介) | トップページ | 第115夜:昨夜の入札 »