第569夜:作田栄利のこけし
遠刈田系の作田栄利は明治31年、遠刈田温泉の生まれ。大正2年に佐藤吉郎平の弟子となり木地修業。大正5年、年期明けし、礼奉公の後に独立開業。その後、一時期木地業を離れたが、昭和22年頃から木地業を再開し、昭和30年ころから伝統こけしを本格的に作り始めた。こけしは弟子入り当初から作ったものと思われるが、確認されているのは昭和15年頃からのもの。戦後は24年から作り始め、40年に没するまで製作している。
「木の花(第弐拾六号)」の『戦後の栄利こけし』で、戦後の栄利こけしの経年変化が述べられている。その中で『戦後作は「ガイド」によると、昭和24年から復活してこけしを挽くとあるが、28年以前のこけしを私は見たことがない。同人に聞いてみたが皆見ていないと言う。』と述べられ、戦後の最初期のこけしとして①28年作(8寸)が掲載されている。
写真(2)の本稿のこけし(6寸)は、胴底に栄利自身の署名で五十六才と書かれている。これは昭和28、9年にあたり、「木の花」①とほぼ同時期のこけしである。栄利のこけしの頭部は縦長のものが多いが、この時期のものは縦長ではなく円形に近い。胴は太めで、2本の緑のロクロ線が胴上下を締めている。胴の重ね菊は割合緻密で、「木の花」①の8寸で5段、本稿の6寸こけしで4段を重ねている。緑の色がもう少し残っていればと惜しまれる。横鬢が外側にあるため顔の面積が広い。眉は湾曲が強く、筆に勢いがありアクセントも見られピーク期の特徴を備えている。顔の中央に描かれた目は、上下の瞼は細いが筆致鋭く、やや大きめの瞳はキリッとして素晴らしい。「木の花(第弐拾号)」の『戦後の佳作』でも作田栄利が取り上げられており、こちらでは30年作(尺)が掲載されている。栄利のこけしは昭和28年から31年くらいの作に佳品が多いと思われる。
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