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第980夜:小倉篤のこけし

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弥治郎の小倉嘉三郎の息子であり、その後継者でもあった小倉篤は父や大野栄治があまりにも偉大過ぎたせいか、あまり触れられない工人である。文献等を見ても、纏まって取り上げられているのを見た事が無い。そういう国恵自身も篤のこけしは片手で足りるほどしか持っていなかったのだから何をか言わんやである。しかし、戦前は別して戦後昭和30年代の前半頃のこけしには惹かれるものがあり、その手のものを長いこと探していた。今回、それに類するこけしが相前後して2本も手に入ったので紹介する次第である。口絵写真はその篤こけしの表情である。

小倉篤は大正11年、弥治郎の生まれ。小倉嘉三郎の三男である。学校卒業後の16歳より父について木地修業をし、こけしも戦前から作った。昭和25年に嘉三郎が病気になってからは、小倉家の当主として木地業に励んでいたが、43年10月1日、47歳の若さで急逝した。(以上「こけし辞典」より)

戦前のこけしは「美と系譜」(101)にあるような、嘉三郎の作風を継いだ大らかで素朴な表情のこけしであった。しかし、戦後になると世の中の風潮から、目の大きい愛らしいこけしを作るようになり嘉三郎の雰囲気からは離れて行った。戦後のこけしで眼点の大きなクリクリ目を描いたのは篤だけではなく、鳴子こけしでもよく見られることは本ブログでも度々触れている通りである。その後、昭和36年には「美と系譜」に見られるような大野栄治に酷似した華麗な梅こけしを作ったが、これは長続きしなかったようである。やがて、梅模様を自己流に草書体風にした模様のこけしに変化していき、魅力の乏しいものになってしまった。

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ここに並べた3本は昭和30年代の前半頃のものである。大きさはいずれも1尺。左端が以前から持っていたもので、右2本が最近入手したもの。特に右端はとても気に入っている。この3本、同じ型のこけしであることは一目瞭然であるが、こうして3本を並べてみると細かい部分で違いが見られ、なかなか面白い。なお、右端のこけしは昭和30~31年頃の書き込みがある。
先ずは木地形態から見ていこう。写真では少し分かりずらいかも知れないが、右端のこけしの雄大さに驚かされる。左2本と比べると、頭が一段と大きく三頭身くらいか。また、胴中央の括れより下の裾の部分が弥治郎の古いこけしのお約束で広がっているのも嬉しい。左2本では裾の広がりは顕著ではなくなっている。右から左に時代が新しくなるにつれて、均整のとれた姿になっていくのが分かるが、同時に破局の美も薄れてしまう。
次に面描。右こけしでは鬢が外側に寄っており、頭の大きさと相まって顔の面積が広い。眉目は大きく鬢寄りに描かれ、眼点も大きく大らかで愛らしい表情である。鬢飾りも筆太に6筆描かれている。中こけしでは、鬢が内に寄ってきてその分、眉目も中央寄り。眼点はやや小さくなったが、整った愛らしいこけしである。鬢飾りは6筆だがやや間が空いてきた。
左こけしでは、眉目の筆致が変って更に中央寄りとなり、湾曲も少なくなって愛らしさが少なくなった。鬢飾りは5筆に減り弱々しい。表情は、右から左にいくにつれて大人びてくる。

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次に胴の梅模様。黒い枝は薄墨の上に濃墨を塗って立体感を出している。裾部の太い幹を比べると、左に行くに従って雑になっているのが分かる。反面、梅の花が増えて模様としては華やかになっている。胴括れ部の下、太い3本の赤ロクロ線の下、右こけしでは、そこに何も描かれていないが、中こけしでは小枝と蕾が2輪、それが左こけしでは一輪が咲き誇っている。ここでも、右から左に時の流れを感じさせ、このように並べて鑑賞する面白さが見て取れる。

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最後に頭のベレー帽の飾り。この半円の飾りは、右こけしでは緑色で左右3個ずつ描かれているが、中こけしでは赤で左右に3個ずつ描かれ、それに連なって真後ろに緑で4個描かれている。また、左こけしも中こけしと同様の様式であるが、真後ろの緑は3個になっている。
この時期の篤のこけしは、嘉三郎とも大野栄治とも異なり篤自身の個性が表れたものであるが、弥治郎こけしの風格はしっかり堅持しており、もっと評価されて良いと思う。

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