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第606夜:茂吉がやって来た!

Mokiti_s15_kao 2月に入って直ぐの2日、ヤフオクに佐藤茂吉のこけしが出てきた。ヤフオクとは初期からの長い付き合いであるが茂吉を見たのは初めてであった。出品写真から保存状態は良く、鹿間氏旧蔵品(「こけし 美と系譜」掲載品)とある。早速「美と系譜」で確認するが確かに掲載品と思われた。古品出品の中の1点という訳でもなく、出品者の他の数点は戦後の普通のものであった。締め切りは3日後の5日の夜。入札に参加したのは11人、内3人が最後の熾烈な争いを繰り広げた。粘り勝ちで入手できたのは幸運であった。今夜はその茂吉こけしを紹介しよう。

先ずは、茂吉の経歴を整理しておこう。佐藤茂吉は、万延元年11月23日、佐藤友吉次男として遠刈田新地に生まれた。明治5年、13歳より家業を手伝い、明治8年ころから二人挽きロクロに入った。明治10年ころには二人挽きで一日に四寸こけしを百本も挽けるようになり、これに父の友吉が描彩をしていた。明治18年1月に田代寅之助が遠刈田に来て一人挽ロクロを伝えた時に田代に弟子入りし、一人挽を習得した。同年7月、青根の丹野倉治が田代を青根に招聘したため、青根に行った。明治20年代後半に新地へ帰り、木地挽を続けた。 大正7年59歳のころには老眼が進んだためロクロに入るのをやめて、以後長男円吉の木取等を手伝っていた。 昭和11年77歳で隠居し、昭和14年ころに、収集家の懇望により、円吉の木地に描彩したこけしが若干残っている。昭和18年8月6日没、行年86歳。(以上Kokeshi wikiより抜粋)

本こけしは胴裏に81才の署名、胴底に「1940.5.6」の鉛筆書きがある。昭和15年5月の作と「美と系譜」(昭和41年9月発行)にも記載されている。また「木の花(第4号)」(昭和50年2月発行)にも写真が掲載されている。所有者であった鹿間時夫氏は昭和53年暮れ亡くなった。鹿間氏の遺品が一般に売りに出されたのは約10年後の昭和63年3月になってから。「忠蔵庵」によるその展示・即売会には入札もあったが、そこに本こけしが出ていたかどうかは記憶に残っていない。今回の出品は兵庫県からであるが出品者は明示されていないため、どのような経緯によって出品に至ったかは定かではない。しかし、その保存の良さは特筆に値する。作られてから既に80年以上経っているにも拘わらず、古色も殆ど目につかず、色彩の退色は皆無と言ってよいであろう。鹿間氏とその後このこけしを所蔵されていた方に感謝である。

Mokiti_s15_2men

こちらが、そのこけしである。大きさは8寸。「美と系譜」「木の花」では白黒写真だったので、カラーでその鮮明な色彩を見られるのは何とも嬉しい。茂吉の作品は昭和14~15年に作られたものしか知られておらず、本作もその1本である。長い休止を経て、しかも80歳という高齢での復活であり、盛時の作行には及ばないとしても、身に着いた技量から遠刈田こけしの古式は十分に偲ばれる。それは枯淡の境地がなせる技でもある。描線に勢いはなくたどたどしさすら感じられるが、切れ長で上下の瞼が狭まった瞳から覗く眼点は、静かな視線を虚空に向けるように見つめてくる。

Mokiti_s15_uramoyo

こちらは胴裏下部に描かれた裏模様の「枝梅」と81才の署名である。

Mokiti_s15_atama_soko

頭部の描彩(左)も見てみよう。前髪の後ろに赤点と緑点を描くのは、青根で作られた遠刈田系の古い様式で直治のこけしにも見られる。頭頂部の手絡模様は現在ではこの赤点(緑点)を中心として、そこから放射状に描かれるが、本作では赤点から4本ずつ左右に描かれる他、緑点の後ろから太い赤線が1本真っすぐ後方に伸び、そこから左右に手絡模様の赤線が描かれている。これも古い様式なのであろう。

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