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第631夜:弘道の42年這子写し

Hiromiti_s42hauko_kao 斎藤弘道のこけしでは昭和33~34年と42年に優れた作品があることは常々言われている。弘道ラブの筆者もその頃の作を中心に蒐集を続けてきた。そんな時期の作品の中でも特に注目すべきものはあるもので、その手の物が出てきた時には更に入手を心掛けている。そんなこけしが先日のヤフオクに出品されていた。弘道の42年作で、「こけし這子の話」に掲載されている大正期の太治郎を写したものである。今夜はそのこけしを中心に42年近辺の弘道こけしの変遷を見てみたいと思う。口絵写真は這子写しの表情である。

Hiromiti_s42hauko_2men

こちらがそのこけしである。大きさは7寸。胴底に「42.9.6 這子 於弘道宅作ラス」との鉛筆書きがある。這子写しは橋本正明氏の依頼で弘道が作ったものでwikiでは「昭和42年9月5日に〈こけし這子の話〉掲載の極初期の太治郎作の写真を土湯に持参して復元を依頼した。」と解説されている。胴底の記載から本作が正明氏の依頼で作られたものの内の1本であることがわかる。作りたてのような極上の保存状態であり、前所有者に感謝である。頭は丸く横に広い感じである。前髪は多く14本もある。眉・目の左右の間隔は広く、目は下方に描かれ小さく、童女の雰囲気である。胴は下部が膨らんだ感じでエンタシスというより三角胴に近い。胴のロクロ線は大正期太治郎の2段の波線が引かれている。

ところで、弘道の42年作がどのように作られたのかは「木の花(30号)」の『弘道のこけし』で矢田正生氏が解説されているので、それに沿って見て行きたいと思う。33年後半から34年中頃にかけてピークを迎えた弘道のこけしも34年後半になると充実感にやや薄れがみられ、やがて平板で特徴の乏しいものとなっていた。40年代に入り、作行にやや改善が見られるようになったが、その転機が何だったのかはよく分からない。「木の花」によれば、『…箕輪氏が弘道の現状に飽き足らず、太治郎初期の写真で製作依頼、また弘道が上京の機会に話しながら作ったりして取り組んだ…』とある。

Hiromiti_s42hauko_suii2

昭和41年から43年頃の作を、変化が分かり易いように本型(波線模様)で並べてみた。左より41年12月(6寸)、それまでの作の延長線上のものである。2番目は42年3月(8寸)で太治郎大正期の作風になっている。即ち、頭が丸みを帯び胴は下部の膨らみが大きくなる。前髪の本数が増え目は小振りで上瞼が下瞼に食い込む。赤と紫の波線は2段で首下の赤ロクロ線は1本となり、その下は緑のロクロ線が3本となる。緑の色が濃く青緑に近い。3番目は本作で42年9月(7寸)。4番目(8寸)はその影響を受けて頭は丸く目は下目、但し首下の3本のロクロ線は紫を使っている。5番目は43年初め頃(8寸)で頭はやや縦に長くなりその分目が上がった。胴の波線が3段の通常様式に戻っている。緑の色が明るくなっている。右端は43年後半(8寸)で頭は丸みが減って縦長となり、前髪の本数も少なくなり目も中央寄りとなった。首下の赤ロクロ線も2本に戻った。この辺りまでが大正期太治郎を意識した弘道こけしということが出来るのだろう。

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