第691夜:元村コレクション(遊佐正雄)
元村コレクションの話を続けよう。元村コレクションについては大沼岩太郎4本しか知らなかったが、今回のヤフオク出品によりそれ以外にも多くの素晴らしい古品があることが分かった。出品作に限って言えば種類は必ずしも多くはなかったが、特定の工人に関しては異なる大きさ、形、描彩のものが揃っており、元村氏の蒐集に対する姿勢が現れており、出品写真だけでも大いに役に立っ。中でも、筆者の好きな大沼竹雄のこけしは、幅広く集められており垂涎の的であった。今夜は「遊佐正雄」名義のこけしを取り上げたい。
もう10年以上も前になるだろうか。大沼秀雄さんを訪ねた折、竹雄の話になり、竹雄には正雄という弟がいて木地挽きの修業もしていたのだが結局ものにならなかったということであった。今回の出品作の中にタイトルに「遊佐正雄」というものがあり興味が湧いた。戦前の昭和10年前後に、遊佐正雄という工人名を聞いたことはなく、「正雄」という名前と出品こけしの作風から「大沼正雄」という名前が頭に浮かんできた。wikiには「大沼正雄」の項があり、兄竹雄より木地挽きの指導を受け、こけしの木地も多数挽いたが描彩は行わなかった。昭和13年頃に上京して小島正の元で働き、正名義のこけしの木地を挽いたとある。竹雄の死(S15.1.5)により鳴子に戻ったが、一か月も経たない1月23日に病没している。
先ずは胴底を見て頂きたい。「元」の墨字の他に、「lyoーlsao」「16/Ⅱ’36」「Naruko 遊佐正雄」の鉛筆の記載がある。これより『遊佐正雄 戦前後の愛好家旧蔵品 1936年(昭和11年)2月 高さ20cm / 伝統こけし 鳴子』という出品タイトルが付けられたのであろう。この鉛筆の記載が元村氏によるものかどうかは分からない。「遊佐正雄」の名前がどうして書かれたのかも分からないが、普通に考えれば製作工人名ということであろう。これが「大沼正雄」のことであれば、上京する前の鳴子在住時のものということになるが…
こちらがそのこけし、大きさは6寸6分、正面と側面から見てみよう。全体の雰囲気は明らかに大沼竹雄のこけし。弟の正雄が描彩まで行ったという話は聞いていないし、たとえ描彩をしたとしてもこのレベルまで達していたとは考え難い。本作に正雄の手が入っていたとしても木地だけではないだろうか。木地形態は胴上部が細めで裾に向かって広がっているが、目ぼしい特徴は見られない。正雄の木地は竹雄から習ったものであり、同じように挽いたのは当然であろう。描彩面では右の眉・目が下がっているが、これは竹雄によく見られる傾向である。胴の菊模様も竹雄の中寸以下に散見される。
では、竹雄のこけし(左:8寸)と並べて比べてみよう。左の竹雄の胴は反りの無い直胴で、右の正雄の胴とは異なっており、また肩の山の盛り上がりも大きい。wiki掲載の正雄木地のこけしの胴は直胴に近く肩の山も高いので、この2本の木地の違いから正雄作と判断するのは難しい。面描は鬢の筆数に違いはあるが、共に鬢飾りの無い昭和10年代前半の代表的な作品である。結局、正雄かどうかの確証は得られなかったが、殆ど触れられることもなかった大沼正雄について話題にすることが出来たのは良かったと思う。
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大沼正雄がこけし工人として大成出来なかったのは、木地挽きよりも描彩が不得手だったのではないかと
思いますね。その点はおそらく父親の浅吉に似たのではないでしょうか?。
もし、正雄が竹雄と同じく描彩にも長けて、こけし工人としてやっていけたら、上京して小島正の工場で働く
事はしないで、鳴子に留まって活動していた可能性があり、その場合酷使により過労死する事もなかった
かもしれないですね。こけし工人として大成出来なかった事が、結果的に正雄の寿命を縮めてしまったの
かと思うと、なんか切ない気持ちになります。
投稿: 益子 高 | 2024年3月26日 (火) 20時54分
益子 高 さま
確かに、そうですねぇ…
木地屋の家系に生まれても誰もが上手にこけしを作れる訳ではないですからねぇ…
周囲は大分期待していたようですが、それが重荷になってしまったのでしょうねぇ…
投稿: 国恵 | 2024年3月28日 (木) 20時42分