今日の東京のコロナ新規感染者は8人となり、ようやく関東一都三県と北海道の緊急事態宣言も解除されることになった。だからと言って急に自粛体制が無くなる訳でもなく、コロナ禍以前の生活への復帰は難しいが、それでもヤレヤレ一段落といった明るい気持ちにはなる。さて、鳴子の松田大弘さんにお願いしていた戦前民之助の写しが送られてきた。大弘さんは未だ高々3年ほどの製作歴であるが、進境著しく魅力溢れるこけしを作っている。前回(第401夜)は庸吉型を作って貰ったが、庸吉の「はかなげで恥じらいのある愛らしさ」とは全く対照的な民之助の「キョトンとあどけない愛らしさ」を見事に再現してくれた。今夜は、その民之助写しを紹介したい。口絵写真は、やや斜め上から見た民之助写しの表情である。
昨年5月に鳴子を訪問した際、松田大弘さんには2本の古作(庸吉、初見・民之助合作)の写しをお願いしていた。その後、戦前の民之助を入手したことから、合作の写しは取り止めとなっていた。25日に人形の家で大弘さんに会った時に、合作の写しを作って友の会の新年例会用に送ったという話を聞き、例会で見るのを楽しみにしていた。26日の例会当日、大弘さんの頒布品は、初見写し、庸吉型のほかに、この合作写しが10本並んでいた。大弘さんが頑張って作ったというだけあって、なかなかの出来栄え。「原」を持っているのにその写しを持っていないというのでは話にならず、これは何とかして入手しなければと思った。新年例会での頒布品の販売は抽選制で最初は1本のみ選べる。進矢さんや春未さんなど人気工人の作品もあったためか、抽選順は早くなかったが、合作写しでは2番手くらいで何とか入手することができた。今回はそのこけしを紹介したい。口絵写真はその表情である。
令和新年2日目、自宅から待望の日の出と富士山を仰ぎ見ることができた。恒例の箱根駅伝は青学が復活の往路優勝、明日の復路が楽しみだ。さて、国恵が大滝武寛のこけしに興味を持ったのは最近になってからである。東京こけし友の会(平成30年9月)の例会で会員から鳴子の高橋直次のグラデ―ションこけしの話があり、そのグラデーションは大滝武寛が「高亀」に依頼した木地に描かれたものであるとのことであった。昨年の3月、ヤフオクに大滝武寛のこけしが2本出品され、入手することが出来た。同じ頃、大阪こけし教室の依頼により正吾さんが、このグラデーションこけし(武寛型と直次型)を作っていることを知り、正吾さんにヤフオク入手の武寛こけしの写しをお願いした。その後、またヤフオクに武寛の尺とえじこが出品され、尺物を入手した。その尺物とえじこの写しが正吾さんの90歳初作として昨年末に届いたのである。正吾さんには昨年1年で4種類の武寛写しを作って貰ったことになる。今夜は、その尺物とえじこを紹介したい。口絵写真はえじこの写しである。
鳴子系のこけしには特に力を入れている国恵志堂の中でも鈴木庸吉のこけしは別格である。庸吉のこけしは残存数が少なく、入手難のこけしの一つである。これまで、石原日出男、小島長治郎、岸正規、菅原和平の各工人等により庸吉こけしの復元がなされており、特に岸正規さんは庸吉型に心血を注いで庸吉に肉薄する作品を残している。しかし、岸さんは庸吉とは別系列(金太郎系列)であってやはり限界はあったであろう。幸八系列の直系である松田忠雄さんの息子の大弘さんは平成生れのニューフェイス。こけし作りを始めてから未だ3年程であるが、一作毎に腕上げ瑞々しいこけしを作っている。国恵所蔵の庸吉を持って鳴子に向かい、その写しを大弘さんに頼んだのは新緑が眩しい今年5月のこと。紅葉の賑わいも一段落した11月、大弘さんからこけしが届いたので紹介しよう。口絵写真は、斜め上から見た庸吉写しの表情である。
11月2日、正吾さんから荷物が届いた。友の会旅行の帰途、鳴子に寄って寅蔵の写しをお願いしたのは10月7日のこと。それから一か月も経たない内に作ってくれたことになる。自身が日頃作っているこけしならいざ知らず、写しは木地形態から描彩まで1から作り上げることになる。しかも正吾さんは来月、卒寿(90歳)を迎えるのである。いつもいつも面倒なお願いをしているのに、快く作って頂ける正吾さんには、只々感謝あるのみである。正吾さんの古作の型を残そうという気持ちは強く、最近では儀一郎や武寛の写し迄、その製作範囲は鳴子本流の周辺にまで広がっている。さて、今夜は昨夜紹介した寅蔵の写しである。口絵写真はその上から見た表情である。
昨年の6月、東京こけし友の会の「こけし談話会」が鳴子温泉で開かれた。その折、持参した大正時代の誓こけし(大小2本)を大沼秀則さんに預け、写しの作成をお願いした。その試作品は昨年8月頃に出来上がり、12月末に鳴子を訪れた時に入手し(第325夜参照)、再度の改善をお願いしていた。この10月の友の会旅行が決まってから秀則さんに連絡したところ作っておくとの返事を頂いた。こういうものは機を逸するとなかなか出来ないことは常々体験しているので、心して鳴子に向かったのである。さて、今夜は、その誓写しのこけしを紹介したい。口絵写真はその表情である。
米沢の長谷川正司さんとは長い事懇意にして頂いている。正司さんは数年前に奥さんが亡くなって、その後は自身も体調を崩してしまい、こけしの製作も休みがちでコンクールへの出品も中断していた。今年になって暖かくなるにつれて体調もようやく回復し、鳴子の全国こけし祭りコンクールに久し振りにこけしを出品することになった。吉太郎のこけしに心酔している正司さんは各種の吉太郎型を作っていたが、今回の出品に関して新たな取り組みを考えているようであった。ところで、国恵(筆者)には気になる吉太郎のこけしがあった。天江コレクションにある大正末期の吉太郎である。特異な木地形態と鋭い表情の迫力満点のこけしである。そこでその写真をコピーして正司さんに送った。正司さんも興味を持ったようなので、その吉太郎こけしの所蔵者である高橋五郎さんに問合せを行った。その吉太郎は今までに復元されたことは無いようで、作っても良いとの返答を頂いた。正司さんは鳴子のコンクールに5本のこけしを出品したが、この天江吉太郎型が選ばれて福島県知事賞を受賞した。今夜はその同型こけしを紹介しよう。口絵写真はその表情である。
ヤフオクで高橋盛のもんぺこけしを入手した。ぜひとも手に入れたかったこけしの一本であった。戦前のこけしに「もんぺこけし」と呼ばれるものがある。弥治郎系の蔦作蔵や秋保の菅原庄七のこけしが有名である。胸部が膨らみ、そこからやや括れて腰部でまた膨らみ、裾部が窄まって最下部が台状に広がった形である。描彩はもんぺを履いた模様である。頭には髷を付けたものが多い。これに対して、今夜のこけしは形態は正にもんぺこけしであるが、頭に髷は無く、胴の描彩ももんぺ模様ではない。もんぺは太平洋戦争中は女性の標準服として全国に広まったが、元々は農山村の作業着であったようだ。東北地方では広く使われていたようで、そんなところからもんぺこけしも生まれたのであろう。口絵写真は盛もんぺこけしの表情である。
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